フォト

Tumblr

最新のつぶやき

Facebook

他のアカウント

Twitter
無料ブログはココログ

2018年8月 3日 (金)

響きの先に ~Naoko Shibuyaサロンコンサート「Allegoria “寓話”」

 
Cimg58351


三十分ほど前までの喧騒の名残に微かな煙草の香るホールの隅に置かれたピアノの蓋を開き、その傍に置いた丈の低い蝋燭に火を付ける。曲はそう長くない。灯りは持つはず。
鍵盤を軽く指先で叩く。"機嫌の良い"との幼い頃の呼び名を嫌がる不機嫌な打鍵がいくつかあるが、調子は悪くない、
譜面を開く。老楽師と火酒人瓶で交換した譜面。
古い呪い歌だという。呪いの言葉は古すぎて読めるものも
冒頭から最後の一音まで弾き、最後の音の消える前に曲を最後から逆に辿って一つのミスもなく弾けると望みが叶うと老楽師は言った。そしてあなたの願いは叶ったのかねとの問には、手に持った火酒の瓶を傾けて、最後にこれは手に入ったよとの答えがあった。

打ち寄せる波をなぞるような音の流れを左手がしばらく紡ぐとそこに右手がちらちらと瞬きを添える。難曲ではない。全部で六頁。行きに不安はない。

楽譜の最後の音を左の薬指が押す。ピアニッシモ。かすかなおとのが消える前に両手が時を巻き戻し始める。
ぎごちなくよろめき気味に並ぶ音。それが世のことわりだと終わりへ戻ろうとする曲を指が始まりへと引きずってゆく。
巻き戻しへの不満を硬さで示して不機嫌さを露わにした打鍵を、肩から腕、指先までを使って押さえ込む。
左手の音が途切れる息一つの間に楽譜をめくる。
閉ざされた部屋。右の視界の端に見える蝋燭の炎は揺るぎもせずに伸びている。だが楽譜の上の音符たちは五線の縛めを解こうと身震いし、幾つかの五線を外れ、空白の方へと動き出している。
瞼を閉ざし、何度も見てきた楽譜を頭の中で後ろ向きに辿ってゆく。あと十五小節。行ける。
引き潮のように音たちが彼方へと去り、静寂。
左肩に鋭い痛みを伴う冷たさ。閉ざしていた瞼を開き、左肩に視線を動かす。

肩の上に載せられた細く白い指。

もう一度目を瞑り、そして待つ。

自分も知らなかった望みが叶えられる瞬間を。

2018年7月21日 (土)

かぜがたり

Cimg54841

一本の樹があった。
草の間に伸びる花を忘れた茨がもっとも丈高い荒野で、年の半ば鮮やかな緑を見せる樹はただ一本だけ、空へと梢を伸ばしていた。

嘗ては世界の半ばを覆っていたという森の最後の生き残りなのか、鳥の気まぐれで運ばれたひこばえが根付いたのかはわからない。
樹は荒野に根を下ろし、枝を天へと伸ばし続けていた。

そして樹はひとりだった。
何度か草が芽生え枯れると、なにかの規則に従って時を測る徴でもあるかのように枝に翼を休める渡りの鳥を別にすれば、生あるものが樹に近づくことはなかった。


祭儀に鳥が梢を飛び立って草が三度枯れた雲が樹に触れるほど降りていた日暮れ前、足を引きずりながら樹に近づく影があった。
影は樹に辿り着くと根の間に染み出していた水を腹這って飲み、背に負っていたビウエラを樹に立てかけると自らも樹に背をあずけた。

血の気の引いた顔と埃で色のぼけた衣を着た楽師は背を樹にもたせたまま雲の中へと消えてゆく枝と幹を見上げていたが、耳が枝を揺らす風をとらえると風を追うように枝から枝へと目を走らせる。
視線が止まった先、楽師の身の丈よりわずかに高いあたりに小さな洞があり、風のいくらかはその洞へ吹き込んでYく。
楽師はビウエラの弦を持って立ち上がると洞の近くある二つの枝に弦を渡すと、弦が洞の前に来るように枝を曲げて弦を結ぶ。
楽師はまた衣から一房の朱い髪を取り出すとその一本を洞の前に来るように枝に結び、樹の根に座り、洞を見上げる。

夜の先触れとなる風が梢を渡りながら弦に触れ、弦の震えが洞の中で谺し、枝を伝う。次の風は弦と髪を揺らし、いくつかの音が洞から拡がる。
枝の間の音を聞いていた楽師はビウエラを持つと洞の音を追うように何本かの弦をはじく。
途切れ途切れの音は互いのまわりを巡りその連なりがしらべとなる。楽師はしらべを確かめるように四度弾く。楽師の顔に微かな笑み。
そして楽師はビウエラを負って立ち上がると樹にたどり着いたときよりもしっかりとした足取りで樹を覆う闇へとあるきだす。


弦と髪は今も震え、それを受け取った洞から外への響きを、時に風の気まぐれが人住まいする境までも運ぶことがある。

風強い夜にのを行く旅人は、風の唸りの中にか細い弦のしらべを聞く。旅人はしらべを辿るようにあたりを見るが、しらべを奏でるようなものはどこにもない。
しらべに追われるように足を早めた旅人は人里の灯りを見つけると、そこに息を切らして走り込み、そこに住まいする人々に自分が聞いたしらべについて語る。
すると住人の中の誰かが旅人に答える。

「あれは異国の公子と恋に落ちた妖精が、三日の逢瀬の後去って帰ることのなかった公子のために歌う、嘆き歌なのだと。

2017年9月12日 (火)

去りし日の ~Naoko Shibuyaサロンコンサート「紙の月」

Cimg02871

日暮れ時微かな鍵盤の音に足が止まる。音のほうへ目をやると、人がどうにかすれ違える広さの小路の入り口がある。小路の先は薄暗く、かつては店先だったらしい汚れたがラス戸がいくつかしか見えない。
音に導かれるように小路の奥へ進む。
色褪せた輪郭や文字がそこが何かを商っていたことを示す曇りガラスより濁った陳列棚と補修に打ち付けられた板も朽ちかけた扉が並ぶ奥、ひび割れたガラスと茶褐色のカーテンのある窓の向こうから、ピアノが聞こえていた。
足を止めたとき、音が途絶えた。

数日後小路の入り口近くを通ると静かな通にいても聞こえるかどうかのピアノの音。
小路へと入ると、音色は同じながら前に聞いたことのない旋律。元は白かった鼠色の壁の窓に近づいてピアノの響きにしばらく耳傾けていると演奏が終わる。
時計を取り出すと針は五時四十七分を指している。

五時半に窓近くに立つ。ピアノの音がすると時計に目をやる。五時四十分。

夕方の日課に五時四十分前に茶褐色のカーテンに近く立つことが加わった。

演奏が始まるのは五時四十分。五時四十七分に演奏が終わる。何度か窓の傍にしばらく残っていたが、それ以後に音楽はむろん、中からは音ひとつしなくなる。
流れるのは最初に聞いたときからいつも一曲だけ。梢のざわめきに似た音の連なりの上を旋律が休らうことない風となって旋律が過ぎてゆく。
楽譜屋で旋律を思い出して口ずさみながら、こんな曲の楽譜はないかと聞くと、店主は微苦笑を押し殺しながら首を横に振った後、言う。
「その曲は聞いたことはありませんが、そのスタイルは五十年ほど前の流行に似ていますね」と。

五十年ほど前の未知の曲。たまに指づかいを誤り一節を弾きなおし、時にゆっくりと時は早めに過ぎる音を聞きながら窓近くにたって思う。弾き手は若き日の思い出を辿るように鍵盤にむかっているのだろうか。それとも祖母の残した楽譜の中でこの曲に出会ったのだろうか。

音が聞こえるころにはあたりは薄暗くなるそんな日。扉近くに立っているとそれまで淀みなく流れていた音が途切れた。その後には静かさだけ。
扉に近づくと内側にわずかに開いている。躊躇いを感じながらも中へ入る。
カーテンを僅かに洩れる陽の名残が微かな明るさとなる室内に人影はなく、部屋の中央近くにアップライトピアノと細長い箱が詰まれた机がある。
ピアノの上前板は大きく開いていて、そこには小さな穴が一面に開いたロールが置かれている。
自動ピアノ。だが聞いていたのは同じ曲だが、早さも違えばミスもあった。
机の上に置かれていた箱のうち蓋の開いていたものがいくつかある。中にはピアノロール。
その中からロール二つを取り出して端を伸ばし、重ねてみる。
穴はおおむね重なりながらわずかにずれている。
他の箱を開くとその中もピアノロール。さっきのロールとほぼ同じながらも穴は完全には重ならない。
誰かの引き癖全てをここに留めようとした同じでいて異なる音を産むロール。
箱が置かれた机の端に小さな銀板写真が置かれているのに気づく。
そこにある人影をはっきり見ないうちに目を背け、扉に急ぐ。
暗がりが拡がる小路を走り抜け通りに出るとき、小路の名の書かれたプレートが見える。
風雨と陽にいくつかの文字が消えているが、そこにはこうあった。

"R_e d'Ause_l(オーゼイ_が_)"

それからその小路を二度と見てはいない。


2017年6月13日 (火)

Between the salt water and the sea strand

Jxq8o8n

     『前兆の過信(人並みの理性)』浅野信二

 


 王国。
 はるか昔、初めて世界が王たちによって分かたれた時のこと。
 王たちが自らの欲する地を得ようと弁舌と力の限りを尽くした折のこと、議論も剣もおさまって王たちが
一息ついた静かさの中、細い声がした。
「私の王国はどこなのだろう」
王たちが声の主のほうを目を向けると、鉄の環を頭に乗せたほっそりとした人影があった。
この場に居合わせ冠を付けているからには王であるには違いない。しかし、と王たちは考える。地が
分かたれる間にあの者の声が聞こえたものなどいなかった。ならばあの者は不在も同じ。
何より全ての地がやっと分けられ終わったというのに、もう一度領域を区切りなおすなど出来ようはずも
ない。
 しばしの沈思の後、強勢な王の一人がにこやかに声を上げた。
「貴公について失念しておったことをお詫びしよう。貴公の王国は、そう」
と言葉を途切らせ、厳粛に告げた。
「潮の満ち干の間、波打ち際とにある全ての土地」
ほっそりとした人影が言おうとしたなにごとかは王たちの歓呼がにかき消され、分割された地の海岸を
めぐるように線が書き入れられ、こうして潮の満ち干の間に王国が生まれた。

 王は潮の満ち干の間の土地に城を建てた。
 王の住まいはただひとつの塔の上に置かれたが、黴と錆とが召使の働きよりも素早く塔を駆け上り、
家具と什器をその棲家とした。
 まして満ち潮ともなると波に覆われる広間に小船を浮かべて眠り、食らう臣下たちには黴、錆と自分らが
どこで分けられるのかわかりようもなくなっていった。

 錆と黴との戦い、潮の満ち干の間に入り込んだ者からの通行税の徴収、そして渇きを求めて塩と水が
尽きるまで掘り進む井戸掘りなどが続く中に、ひとつの知らせがもたらされた。

 王の婚礼。

 海が常よりも三階高く城を浸す大潮の日、満ち潮に導かれ、上限の陰を針無しで縫い取った婚礼衣装の
花嫁が海獣を介添えに城を訪れた。
 黄昏と夜の間の時刻の相続人である花嫁を飾る夕星の輝きが錆と黴を落とされた広間を満たしてゆくのを
さして数の多くない婚礼の客と臣下たちは喝采の声を送った。
 引き潮に合わせて海獣たちが城を去り宴が終わると、それまで隅に潜んでいた黴と錆が広間に忍び足で
入ってきた。
 そして臣下たちは再び黴と錆との追いかけ合い、皮のシャベルでの井戸掘りの仕事へと戻っていった。

 年代記は文字が錆黴に取って代られるここで途切れている。

 だが年代記に頼らずに王国について知りたいのなら、陽が水平線に落ち、闇に海と空が溶けてゆく瞬間の
西の渚を見るとよい。
 そこには海と陸との間に細く伸び上がる一本の塔が見えるであろう。数多の王国が燃え上がり、城壁が
砕け散った後、ただひとつ残った天守が。
 

『前兆の過信(人並みの理性)』、作品画像は作者浅野信二さんにいただきました。
末尾ではありますが、お礼申し上げます。

2017年6月 6日 (火)

胡尾~「メリーゴーランド 淡き無垢なものたちの記憶」 中村キク

Cimg04461


 子どもが少年を見たのは夏も終わり近い日の午後だった。
明り取りの小窓からようやく西に傾いた陽の光がわずかに差しこむ屋根裏の壁に掛かったタペストリーの、
光を外れると闇の深さになる青の中中央に、髪から突き出した獣の耳とふさふさの尻尾を持った少年は、
一角獣と並んで立っていた。
、角を垂らすように蹲る一角獣の顔に目を閉じた頬を寄せている獣耳の少年を子供は夕食へと呼ぶ声が
聞こえるまでときおり咳き込みながらずっと見ていた。
 夕食の席で子どもがタペストリーについて尋ねると、父は屋根裏に行ったことを叱り罰として三日外へ
遊びに出ることを禁じた。
 外へ出られぬ二日目、子どもは熱を出した。
外に出られぬ三日目、一族の中で変わり者とされている叔父が長い午後を臥せって過ごしている子どもの
部屋を訪れた。

叔父は「牧神」と口にした。
タペストリーに描かれた獣の耳と尾を持った少年は牧神なのだと。
といってもそこらにいるような牧神ではない、と叔父は続けた。あれは遥かな東の地の牧神なのだと。
 牧神を連れてきたのは史書にもその勲しが記される二十代前の祖先。東の地での戦いに出て二十年の後、
後ろに獣耳とふわりとした尾の牧神を従えた馬に乗って帰ってきた。
 故郷に残ったものたちは他に何も持ち帰らなかったことを詰りながらも、驚異として牧神を受け入れ、館の
一室に住まわせ、世話をした。
だが傍目にも牧神は幸福には見えなかった。わずかな食物と水だけを口するだけ。話しかけても何も答えず
-牧神はこの地の言葉を、いや東方の言葉も知っていたのかもわからない-、月清けき夜窓辺で笛の音に
似た声を外へ向けていたのがただひとつの意思の表れだった。
 牧神が館に来て数年過ぎた冬の朝、食物を運んできた召使が、牧神の姿が部屋にないのに気づいた。
 主が人を外へ送り出す手配をしている最中、牧神を見かけたという知らせが届いた。
 知らせ持ってきた者に案内されるまま森に入った主たちが見たのは、蹲り首を垂れて眠る一角獣に身を
寄せた牧神の姿だった。タペストリーはその姿を織り出したものとずっと伝えられている。

 その後どうなったのと子どもが聞く。
 
 眠っていた一角獣に縄をかけ、牧神と一緒に館へと運んだのはわかっている。でもその後がはっきりとは
わからない。
 館へ連れて来られてしばらくしてから、牧神と一角獣そろって消えてしまったと言う者もいるし、何を与えても
口にしなかった一角獣が死ぬと、その後牧神も一角獣の後を追うように病み、この地の言葉で館に住む者への
呪詛を、この地の言葉で口にしていのちを終えたと言う者もいる。
 きみはどちらをお望みかな、叔父は最後にそういうと子供部屋を立ち去った。

 一人床に残された子どもは考える。もしこの家から消えたんなら、森にまだ牧神も一角獣もいるかもしれない。
森へ行ったら牧神をさがそう。


 子どもが森へ行くことはなかった。


2016年12月13日 (火)

鳥とぶころに

U0whq_5f

            『天使(ふりつづくかげ)』浅野信二

二十分に一口ずつすすり、カップの底にわずかに残ったいちばん安いコーヒーに細い輝きが見えた。背の高い窓に顔を寄せて傾きかけた家々の間に僅かにのぞく空を見ると、裂かれた重く黒ずむ雲が青の僅かな拡がりを狭め覆おうとしていた。

「鳥の王が通ったか」。窓から離れた暗がりから店の主の声が聞こえる。
「鳥の王?」、なかば礼儀で聞き返す。

こんな雲が厚くて誰も空を見上げないような日には、世界の涯てから嵐を引き連れて鳥の王が飛んでくる。
厚い雲の向こうで高みの青も見えないのにそれでも空を見上げるのは、人じゃあなくて空へ戻りたいと願っている墜ちた天使ばかりだから、鳥の王は雲を裂いて世界でいちばん遠くを見られる目で墜ちた天使を見つけると羽ですくいあげて天へ連れ戻す。そして嵐が天使をいた徴を地上から洗い流す。
けれど鳥の王が空にいる時に墜ちた天使が空を見ているとは限らないから、鳥の王が墜ちた天使に気づかないことだってある。
だから雲しか見えなくてもをじっと空を見ている姿が今でも……。

「おや、帰るのかい、えらく早いね」
ポケットの中の小銭を出して数え始めたのに主が驚いたように言う。
「鳥の王が過ぎたあとには嵐になるんだろ。傘は持ってないんでね」

払いを済ませて外へ出るとふぅと息をつく。

ご同輩だとは思わなかったよ。あんたはどのくらい地上にいるんだい。ずいぶん長いのかい。地上はずっとお気に召さないままなのかな。
もしかして地上が嫌いなばかりに忘れてしまったのかい。墜ちた天使が皆空へ戻りたがってるわけじゃないのを。
天界を飛び回るより地面を這いずりまわるのが性に合ってる墜ちた天使だっていて、そんなやつは空を出来るだけ見上げないようにしてる。

そしてここにもそんなのが一人いるんだよ。


作品画像は作者浅野信二さんよりいただきました。末尾ながらお礼申し上げます。

2016年10月 9日 (日)

ささめきごと-「神聖なる一族24人の娘」

時は今、あるいは今近くだろう。
車で動ける距離にソ連時代のアパート群が立ち、新年をもたらす異人たちのガラガラはペットボトルを加工したもの。
しかしそこに古くから伝わったであろう儀礼、まじない、習俗が生き続け、人と住まう空間のすぐ横には妖かしたちがいる。
そして主役となる24人以外の男女問わずの人々もまた、呪いと儀礼を呼吸して生きている。
この呪いと儀礼の中で語られる、多くが艶笑譚である二十四の物語の根元はソ連やロシアが生まれる前にまで遡れそうでもあり、と同時に昨日井戸端で思いつかれたものにも見える。
それでも全ての語りはこの物語の中では本当の話であり、それを長くも短くもある物語一つ一つがその"本当"の源となる。

そしてそのほんとうの先に、ほんとうとまぼろしが編みこまれた何か、マリ・エルであり日々であるものが拡がっている。

2016年10月 8日 (土)

The Silk on the Borderland-真条彩華個展 「とある女の御伽噺」

向うの小沢に蛇が立って、
八幡長者のおと女、
よくも立ったり、企んだり、
手には二本の珠を持ち、
足には黄金のくつを穿き

                      泉鏡花『草迷宮』


彼岸と此岸、あちらとこちら、呼び方はいくつもあるが隔てられてあるいくつかの場がある。
その向こう側は夢、時に水鏡にゆらめき映るものに微かな徴を見せるが、夢は目覚めの前に忘れられ、
水鏡はわずかな動きに揺れ、かき消える。


だがここには瞬きの僅かな闇に浮かぶ風景が絹と紙に留められている。
鴉天狗は異界への導者となり、花開いた夕顔のベラドンナの香り。
西湖主の微笑みは目覚めの前に消えた夢。
奈落の狭間に点だけで繋がる二つの場と入り混じる。
此岸と彼岸を軽々と飛び越えるステップを辿る中、
どこかでアルトの声がする。

「境界なんてないんですよ。知らなかったんですか」

2016年9月15日 (木)

深みに詠い-Toru Nogawa"Léviathan"

「たいくつ」
手元を照らすために置いた灯りの向こうからの声。
「あと少しで終わるから」
「さっきもそう言った」不満そうな答えが返ってくる。
また同じ繰り返すよりはと、開かれた頁に集中し、要旨の抜書きを続ける。

「何読んでるの」
白い手が灯りに照らされた頁の上に伸びてくる
「ああ、濡れた手で本にさわらない」
白く冷たい手を本の上から軽く押し返すと本を閉じ表紙を見せる
「すい……せ……」
「『水棲誌』、水の中に住むものたちについての本だよ」
そう言って本を開く。
「これは?」
「ベヒモス、」
「似てない、ベヒモスはこんなにぷくぷくしてない」
それから頁がめくられるたびにカリュブディスの意地の悪さ、クラーケンは頭足類じゃないなどなど、文と添えられた絵についての不満が限りなく続く。
ああ、これは本の最後までこの調子かと本を閉じることを考えた時、声が止んだ。
開かれた頁には"リヴァイアサン"の見出し。
深みの藍に鰭のついた蛇体をくねらせながら正面を向く女身像を指差して聞く。
「この絵に言うことは無いの」
「見たことある。リヴァイアさんは、海のいちばんの深みに住んでいていつもはうたたねしてる。そうしてる時に嵐で起きた波のざわめきがはんぶん消えながら深みまでつたわってきたら、リヴァイアサンは波のところまで上っていって、おぼれ死んだ魂を集めて深みに連れてゆく。
そうやって連れてこられた魂は、もう見も聞こえもしないけど、いちばん最初に連れてこられた魂が歌いだすにののにあわせて、声をそろえてリヴァイアサンを讃える。その歌を聞きながら、リヴァイアサンは次の嵐まで深みでまどろんでる」
リヴァイアサン語りを聞いているうち、灯りがなくとも頁の上の文字が読めるくらいに空が明るくなってきている。

「あ、もう夜明けか、帰るね」
そういうと白い手が本の上に灰色の小石を置く。
「この石が潮の満ち干の間で踊って白い砂粒に変わるくらいたったら、あたしこの絵よりもっときれいな世界でいちばんのリヴァイアサンになるから、そしたらあなたの魂を深みに連れてく。そこであなたは上手に歌いだして、あたしを讃えるの」

あどけない面立ちに鋭くとがった緑の歯がみえるくらいの笑みを浮かべると、まだ三メートルも無い蛇体をばねのようにくねらせて跳ね上がると、幼いレヴィアたんは海へ飛び込み、その深みの住まいに帰っていった。

小指の先ほどの大きさも無い灰色の石を見て、ふぅと息をつく

"小石が潮の満ち干の間で砂粒になる"って、それにはどれくらいかかるんだい。そのころにはもう私の魂の欠片だって残ってやしないよ。

2016年9月 9日 (金)

夢守~Toru Nogawa"Ein Dunkler Markgraf:月下美人"

 昼と夜の食国の境界-ゆめとうつつのあわいと古い伝えは語る-に、目覚めの前に忘れられた夢で築かれた方伯の城館が立つ。
 始まりがいつだったかを方伯は覚えていないが、方伯はこの境界で現し身のまま夜に入ろうとする者の首を押さえ、昼が夜に充たされた間、暗い昼を訪なう妖かしを黄昏の戸口へ導き、昼と夜を分かっていた。
 だが暗い昼を訪なった妖かしの多くが帰らず、息も絶え絶えに戸口に着いた妖かしが灯りが暗い昼を昼と同じくし、わずかな影しか残っていないと語ってからは、戸口から向こうへ進もうとするのは自信家か愚者だかとなり、そして眠りの作法が昼の側で忘れられて現し身のまま境界を越えようとするものも久しく途絶え、方伯の務めの刻は長い無聊へと変わった。
 
 ある黄昏のいつまでも続く午後、婚礼の夜に発狂した王との前身を持つ家令からの来客の知らせに夜に根を張り昼へ伸ばされた尖塔の物見から降りてきた方伯は、ひととき浮かんでは消える夢の欠片に彩られた広間で来客と向かい合った。
 
そこに待っていたのは昼に住まう、自らをヒトと名乗るものだった。

ヒトは方伯に語った。

 わたしは最後のヒトでした。昼の食国では夜は夜、昼は昼と今一度すっぱりと分かたれ、ゆめ見るもの、そして昼にヒトはもう誰一人残っておりません

 方伯は聞いた言葉に嘯くように息を吐く。

 いつかも知れぬ始まりから続いてきた境界の守の終わり。境界が定まりそこを侵すものが消えたというのなら、長い午後をゆめとうつつのそれぞれを見て過ごすことはない。
 だがと方伯は思う。守の刻の中にあったものに守以外の何ができようかと。

 
 かつてゆめとうつつのあわいとされていたところに、目覚めの前に忘れられた夢で築かれた塔が朽ちながら立っている。
 その先端の物見に、方伯と呼ばれたものの姿は……、無い。

異邦の前奏曲 - Prelude Étrang

«うつつ舟

2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

最近のトラックバック

カテゴリー